介護生活No24「靖国の遺児の生き様」

夫の25回記を目前に控え知人に掛け軸を書いてもらい床の間にかけました。

「きみを我が心に住まわせ 幾千年幾万年も恋わたるかな」

母は当時94歳になっておりました。70歳ぐらいから糖尿病をっ煩い、その当時は日に4本のインシュリンを打っておりました。

そして、運動、食事、血糖値測定をする毎日でしたが、2階へ上がって寝ておりました。

人並の老化と思っておりましたところ、その掛け軸を見るなり

「いい字やな・・・いい歌やな」と眺めておりましたが、傍にかけてある戦死した父の写真を見て「この人はどこの人やな?」と真面目な顔で私に訊ねるのです。

驚きました。

母の状態と私の状態

それまで、老人だから遠くへ行くと帰り道がわからなくなると思い、とんちんかんの話があってもこんなもんだろうと考えていました。

しかし、この時ばかりは「自分の夫までわからなくなったのか・・・」と。

そして私の夫の写真を見せたところ「あらー尚志さん久しぶりやなー」と言いました。

自分の夫とは10カ月しか一緒にいなかったから、こんな事になったのかと思いつつも私にとってショックが大きかったです。

次の診察の際

「先生、ちょっと頭の良くなる薬を出してくださいな。私、疲れますわ。」とお願いしたら

「認知症という程ではないです。単なる老人性の脳の劣化だと思います。と言われたのですが、強く訴える私に「アリセプト」を出してくださいました。

一向に良くなる気配はありませんでしたが、「私の気休め程度」かな…と思いつつもそれなりに安心していました。

体の老化は日に日に進み、下の世話も徐々に手がかかるようになり、いつも今、母がどういう状態であるのかを認識していなくてはならない日々となりました。

デイサービスやショートステイのお世話になりながらの日々でしたが、私自身完全に気が休まることなく、徐々に疲れが溜まってくるのが分かりました。

その為糖尿病食を宅配してもらったり「手抜き」をできる限りやりましたが、遂に

「私が70歳になるまでは家にいてもらうけどそれ以降は看る自信がないから」

と言ってしまいました。

母の体の自由が利かなくなることは覚悟の上でしたが、蓄積する疲労はどうすることもできなくなり風邪をひいても回復が遅くなりいつまでこの生活が続くのかと思うようになりました。

母の入院

私が70歳になった時、遂に母が「起き上がれない。救急車を呼んで」と言い、内心ほっとしました。

お医者さんから「高齢ですから1週間は保障しますが、あとは覚悟しておいてください」と言われましたが、食欲もあり一般病棟に移ってからは、ベッドに腰を掛けてニッコリと笑ったりしたのです。

親子の情でしょうか、うれしいような驚きを感じましたが、全ての薬を止めてもらっていたので不思議でもありました。

そして4か月ぐらい経った頃、母は「家へ帰ろうか」と言いました。

私は微熱も続き、めまいもしていたので

「今家へ帰ったら私死んでしまう。頼むから我慢してここにいて」

と頼みましたら

「お前に言っても駄目だということがわかった」

と言って笑顔を見せることはなくなりました。

一日3度のごはんを食べさせに行きましたが私にとって一時間ほどいるのが精いっぱいでした。

母の方は会話がまともに出来るようになったし、アリセプトは何だったのかと思う日々でした。

食欲は旺盛でしたし、今まで糖尿のため制限されていた甘いものも喜んで食べておりました。

そんな生活も徐々に衰え10月末に息を引き取りました。

最後までコミュニケーションはとれ食欲もあったことはそれなりの幸せなひとときを送れたと私自身は思いました。

その後も微熱が続き気の緩みと疲れが出ているのが感じられる日々でした。

遺族会の方と偶然の出会い

そんな一年が経ったある日、遺族会の婦人部長さんにばったりと出会いました。

そして「もうお母さんのことは済まされましたから、お父さんのことも考えてみませんか?」と言われ

「エッ!」という思いでした。

父は私が生まれて一週間後に出兵し、翌年沖縄戦で戦死、そして母一人と子一人の生活が始まりました。

病身な母の為

「なぜ父は、母と私を残して逝ったのだろう」

と思うくらいで父に対する思いはありませんでした。

そんなわけで婦人部長さんには

「せっかくと言ってくださるのだからと本籍と軍歴をお知らせしよう」と思う程度でした。

婦人部長さんは、秋に国会議員の秘書さんに父の最後の地の調査をお願いするとのことでした。

しかし73年前のことであり、何も期待していませんでした。

ところが今年の2月になって秘書さんから「遅くなりましたが、厚労省と靖国神社に調べに行き、ようやく分かりました」と父に関する分厚い資料が届きました。

でも私は「あっ。そうか」という程度で体調も思わしくなく沖縄まで行けるとは思いませんでした。

しかし、大変な戦いで亡くなったのかという思いで朝の仏壇のお参りでは別な思いでお経をあげる事が出来るようになりました。

そのような時、春の彼岸に突然父の従妹が遠方から訪ねてくれました。

父の従妹との再会

その日は、お客様が多く店の中に入れないような状態で

「顔だけみせてもらったから帰ります」と言ってくれた時、

ふと「父の戦死した場所が分かった」と伝えたところ

「一緒にいこう」と言ってくれトントン拍子に話がまとまり沖縄の父が戦死した場所へ行くことが出来ました。

不思議な計らいであったと感じました。

父の従妹は長年看護婦をしており、私の健康状態を案じて体温計持参でした。

私の体調を気遣っての事で有り難く、うれしい事でした。

従妹とは年賀状のやり取りぐらいの付き合いでしたが、2泊3日の沖縄の旅、いっぱい話ができました。

父の気配と父の守り

父の最後の地は、一人ではおそらくいくことのできない程の未だに土埃の舞い上がるさみしい場所でしたが、父の気配を不思議と感じました。

私は、お供え物やなと・・・。

「我計らいにあらず導かれて訊ねることが出来た」

と思いました。

73年前の父の思いを感じる事ができました。

唯々不思議としか言いようのない、行かなければわからない筆舌に尽くしがたい事でした。

帰路、言いようのない明るい感謝に満ちた思いになり不思議な事でした。

母の介護も、私の今迄も大変だったと思いましたが、何とも恵まれた日々であったことかと思う近頃です。

認知症といっても「エッ!!」と驚くことも、私の手に負えないこともなく、最後までコミュニケーションもとれ、食べさせたいものを口からとる事ができました。

今となっては感謝する事ばかりで父の守りがあったことを思わずにはおれません。

 

「ぽーれぽーれ」通巻344号2009年3月25日発刊より抜粋
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